兵庫県の観光スポットを探る

この時竹田城も攻略されたと考えられているが、山名祐豊の重臣太田垣輝延は引き続き城主として留まったのです。そしてその後 天正元年(1573年)、吉川元春ら毛利軍は出雲、伯耆、因幡に進軍し尼子軍を撃破しながら但馬に迫ってきたときに。太田垣輝延は毛利軍に降伏し、次いで天正3年(1575年)5月に山名祐豊は吉川元春に誓紙を送って芸但同盟が成立しました一旦危機が去ったように思えたが、今度は丹波の赤鬼と言われた荻野直正が同年10月に竹田城を占領すると、山名祐豊は一転して信長に救援を求め、信長も応じる形で明智光秀を派遣して第一次丹波制圧(第一次黒井城の戦い)を開始し、荻野直正は黒井城に撤退したのでした。竹田城の戦いがありました。そしてやがて信長と毛利氏の間が次第に悪化すると、信長は播磨に羽柴秀吉を派遣したのです。天正5年(1577年)10月、秀吉は黒田孝高に迎えられ姫路城に入城した際それから1ヶ月で播磨の諸将から人質をとり帰服させることに成功したのです。その後羽柴軍は二手に分かれ、秀吉率いる本隊は上月城を攻城、別の一隊は秀吉の弟羽柴秀長が3000兵を率いて但馬に進軍し、いっきに攻めに入りました。秀長隊の狙いは2つあったのではないかと『史跡・竹田城跡』では解説していて、一つは毛利軍に帰服している但馬諸将の制圧、もう一つは生野銀山の確保が目標であったようで、その真相については現在もよくわかっておりません。

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