兵庫の名所めぐり

結構、歴史的な背景はややこしい感じですよね。いろいろな歴史的背景をしるとその時の状況というものがわかりますね。その後嘉吉3年(1443年)に赤松教政が、文安元年(1444年)に赤松満政が、康正元年(1455年)赤松則尚が山名軍に反抗するがことごとく敗れ、自刃・逃亡している。それで当時の竹田城は播磨と但馬の国境を守る拠点で、播磨を平定するための出撃の拠点ともなっていたのです。そう考えると山の上に城を築いたってことがわかりますよね。また、そのご応仁元年(1467年)、細川勝元と山名宗全の争いが一因で応仁の乱が起こると但馬は細川氏と山名氏の争いの場になりました。そして翌応仁2年(1468年)3月、細川軍の内藤軍が夜久野から但馬に侵攻しようとしていた時には、竹田城で留守を預かっていた太田垣軍は、竹田城から出軍し夜久野で合戦となり小勢ながらよく戦い、内藤軍の大将2名を討ち取ったのです。そういった背景があることから夜久野高原には現在も「内藤塚」と言われている供養碑が残っているのです そしてその後も細川氏や赤松氏の脅威は去ることは無くて、応仁の乱が終わると宗全の孫山名政豊と赤松政則が播磨などはその権力を巡って抗争を続け、一時山名軍が播磨を占領したりしたが、長享2年(1488年)頃には敗戦となり政豊の権威も低下していき 内紛も発生してしまうようになったのです。

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